できることを奪われる介護が、介護される人の心をしんどくさせる気がする

窓辺で車椅子に座り、静かに外を眺める高齢者の後ろ姿 介護のはなし

介護の現場で、よく見る光景

介護の現場で、よく見る光景がある。

「危ないから」
「時間ないから」
「こっちがやったほうが早いから」

そう言って、
本人ができることまで、つい代わりにやってしまう場面。

一見、やさしさみたいやけど、
私はずっと、ここに違和感を感じてきた。

できるのに、やらせてもらえない瞬間

・歩けるのに、すぐ車椅子に乗せられる
・食べられるのに、全部介助される
・着替えできるのに、「じっとしてて」と言われる

本人の「やりたい」が、
気づかんうちに消されていく瞬間。

もちろん、ちょっと動くだけでもしんどくて、
「全部やってほしい」と頼る人もいる。

でも、それで全部手伝ったとして、
**ほんまにそれが正解なんかな?**って、私はいつも考えてしまう。

「あなたはもういらない」と言われてるみたい

介護する側は、そんなつもりはない。

でも、結果的に
「できることを奪ってしまっている」場面もある。

できることを奪われるって、
たぶん本人には、こう聞こえるんやと思う。

「もうあなたは何もしなくていい」
「あなたの力はいらない」

それって、
存在ごと否定されてるみたいで、
めちゃくちゃつらいんちゃうかなって。

意欲低下、無気力、あきらめ。

それも、
なるべくして起きてることなんやないかな、って思う。

現場の事情も、正直しんどい

もちろん、現場も楽じゃない。

人手不足
時間に追われる毎日
安全第一で動かなあかん現実

「ゆっくり待つ余裕」がない日も、正直ある。

それでも、
全部奪ってしまうやり方が、
ほんまに正解なんかは、ずっと考えてる。

私が大事にしたいのは「できる余白」

完璧な自立は無理でも、

少し待つ
少し任せる
少し見守る

その「余白」が、
本人の誇りや自信を守ってる気がする。

たとえば――

移動するときは、
一日に何回かは歩く機会をつくる。
全部を車椅子に任せるんじゃなくて、
数歩でも「自分の足で動く時間」を残す。

服を着るときは、
袖だけでも自分で通してもらう。
ボタンは手伝っても、
「最初の一動作」は本人に任せる。

食事のときは、
食べやすい食器や用具を使って、
できるところまで自分で食べてもらう。
全部介助じゃなくて、
「できる部分」が続けられる環境をつくる。

もちろん、
できることの範囲は人それぞれ違う。

でも共通して言えるのは、
できることを残す関わりが、心を守ることにもつながるってこと。

まとめ

介護は「やってあげること」やなくて、
「できるを残すこと」でもある。

それが、
本人の明日からの「生きる力」につながるんやないかと思う。

私はこれからも、
できることを奪わない介護を選びたい。

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